「まったく……ついてない」
 
ぼやきも、もう、一人前。
この学校には、生徒が4人しかいない。
だが。
教師は、2人しかいないんだ。
そのうち1人は、校長先生。
 
「下っ端は、辛いねぇ……」
 
独り言ちるも、応えるものはなし。たった1人の職員室。
1人は独り。こんなことを考えはじめるとひどくわびしいものだ。
だいたいなんだ、うん。
好きこのんで他人に説教したいようなヤツもいるだろう。
だけどな。俺はそういうんじゃない。
……他人が信じるかどうかは、別にして。
だから、これからのことを考えると、少し……気が滅入る。
 
コンコン、と控えめなノックの音が響く。
 
「……開いてるよ。君に閉じる扉は、持っていないからね」
 
はぁ、と小さなため息に続いて、小さな影が教室に滑り込んでくる。
 
俺の目の前で、肩を落としている女の子。
気落ちしてるようで、せんせーは心配だなァ。
 
「どうしたの? 十三階段昇るわけじゃないんだから、笑っていいんだよ?」
 
「宗哉兄さんは、いつも笑ってますよね」
 
ふぅん。そんな風に思うかい?
ま、どうでもいいんだけど。
 
「俺の笑顔、苦手?」
 
「いえ、そんなことありませんけど……」
 
胸の奥に、小さな痛みを覚える。
こんなこと言ったら、君はどんな顔になるんだろう?
 
『俺は、自分の笑顔が大嫌いだ』
 
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学生時代は、人並みには夢と希望を持ち合わせていたように思う。
この村は別に嫌いじゃなかったが、たいして好きでもなかった。
街にはそれなりに憧れもあったし、明かりの絶えない夜は新鮮だった。
大学の登校初日は、それなりに不安もあった。
同年代の友人には事欠いていたし、自分がどれくらい馴染めるのか、何度も鏡を見直した。
その時はまだ、笑顔の価値を疑っていなかった。
笑顔が、幸せな未来を運んでくると信じていた。
 
競うようにサークルに参加したのを覚えている。
誘いは出来るだけ断らない。
嫌なことは顔に出さない。
笑顔を絶やさないことが、この喧噪に溶け込む唯一の手段と信じていた。
 
最初のうちは、自分でも上手にやれていたと思う。
俺の部屋は男のつけない香水の匂いに満たされ。
独り寝の夜の天井に、実家の風景を思い浮かべることも少なくなっていった。
 
だから。
どこでボタンを掛け違えたのかわからない。
どこで選択を誤ってしまったのかわからない。
 
いつものように。
彼女が行きたいという店に行き。
彼女が食べたいというスイーツを食べ。
彼女が見たいという夜景を見て。
彼女が欲しいというアクセサリを買ってあげた翌朝。
 
唐突に、別れを切り出された。
 
俺は笑った。
落ち着き払ったまま、笑った。
そりゃ、俺の素行は紳士だとは言い難い。
だが、そっちだって淑女を気取るつもりもないだろう?
だから、笑った。
たいていの言い争いは、薄い笑顔で乗り越えてきた。
 
未練があったわけじゃない。
執着も、束縛もしてなかった。
お互い、自由な関係。
大人な距離……のつもりだった。
俺は慌ててはいなかった。
別れようが別れまいが、どっちでも良かった。
ただ、理由が知りたかった。
俺がこの先もこの街で生きていくのに、欠けているものがあるなら、それを知りたかった。
 
もう名前も思い出せないけど。
その言葉だけは、忘れることができない。
 
『あんたの笑顔、作り物みたいで気持ち悪いのよ』
 
足元が崩れるような感覚、っていうのはきっとこういうことを言うんだろう。
なにがなんだか、わからない。
コミュニケーションの万能ツールは、万能じゃなかった。
メールアドレスの一覧を埋めるだけの存在に、お前の笑顔は偽物だと、あっさり看破されてしまうくらいに。
吐き捨てて、その女は俺の部屋を出て行った。
他にもなにか喚いていたようだが、俺の耳には届かなかった。
追いかけていく気力もなかった。
 
そのまま、床に寝た。
いつ朝になったのかも、わからない。
いや、自分が寝ていたのか、起きていたのかも、はっきりとはわからなかった。
 
きっと。
俺の方に問題があるんだろう。
 
俺に何か欠陥があって、知らぬ間に傷つけていたに違いない。
──ホントウニ?
だから、俺は。
もっと上手く笑えるように。
もっと自然に笑えるように。
もっと、器用に立ち回れるように。
 
微笑みを覚えた。
嗤笑を覚えた。
朗笑を覚えた。
時には軽口を叩くことも。
あえて笑いものになることも覚えた。
 
本能の赴くままに生きられたら、ストレスなんて感じないだろう。
思ったことを全部口にしていけたら、ストレスなんて感じないだろう。
本音を本音のまま正直に伝えるなんて、馬鹿げている。
そう。
俺だけが嘘つきなわけじゃない。
──ミンナ ウマク ヤッテイルノサ。
……俺もせいぜい上手にやってみせるさ。
ここで、生きていくために。
 
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友人はさらに増えた。
携帯の呼び出しが鳴らない日はなくなった。
それなりに充実した日々を送った。
時折、なにかが違うという小さな声を聞いたような気もしたが。
目を閉じグラスを傾ければ、そんな声はすぐに霧散していった。
 
俺は、間違っていない。
俺を馬鹿にする奴なんていない。
人の群れを泳ぐ中、気付いたのは。
陰口を叩く奴ほど、自分が陰口を叩かれることに敏感だってことだ。
あいつの顔も見たくないと公言してはばからないような奴は、たいてい誰かに顔も見たくないほど嫌われている。
ぐだぐだと愚痴ばかり漏らすような奴は、自分ができることの殻に閉じこもって、たいてい何かをした気になっている。
まったく、世の中ままならない。
 
自分だけは違う、だとか。
私だけが貴方を救える、だとか。
馬鹿げた妄想に付き合うほど、こっちも暇じゃない。
自分の物差しでしか他人を測れないなら。
せめて、その口を閉じていろ。
 
思い返せば、このときの俺は相当にまいっていたんだろう。
他人の好意を、素直に信じることができなくなっていた。
常に言葉の裏側を探り、自分の弱さを決して露出しないように過ごしていた。
気の許せる友人を、ろくに見つけることもできなかった。
自分が完璧からはほど遠い人間であることを自覚してはいたが。
田舎者が、ちやほやされて舞い上がっていた。
 
──だから、あんなことが起きる。
 
店に行った。
興味のある本があった。
しかし、持ち合わせが心許なかったので、購入を見合わせた。
数日後。
もう、その本は店になかった。
わずかな手間を惜しまなければ、手に入れることはできるのだろう。
だが、俺は注文しなかった。
たくさんの本が、所狭しと並んでいる。
だが、人気がなければ、半年としないうちに店先から姿を消す。
ここにある本は、そのほとんどがその価値を証明する機会すら与えられず、倉庫へと送られてしまう。
まるで、人のようだ。
言いしれぬ淋しさに、胸が潰れそうだった。
 
帰り道、コンビニのおにぎりにかじりついた。
農家の人の顔は浮かばなかった。
 
顔見知りの数だけは増えたが。
いつからか、ごちそうさまも言わなくなっていた自分に気付いた。
それに気付いてから、試しに携帯の電源を切ってみた。
あれほど怖れていたはずの静寂が、ささくれた心に優しかった。
 
灯りもつけずに、窓から街を見下ろした。
垂れ流しのテレビは、不幸なニュースばかりをがなりたてる。
あんなに憧れていたはずの街並みは、見た目だけ騒々しくて。
夜空に、星も見つけることができなかった。
 
そうして、外に出ない日を、幾日か過ごした。
 
なにかないかと開いた冷蔵庫の奥に、それは転がっていた。
実家から届いたまま、封も切らずに放っておいた、手作りのちまき。
他人に見られるのが、なんだか気恥ずかしくて。
隠すように、ずっと、放り込んだまま忘れていた。
 
おずおずと手を伸ばし、一息にかじりつく。
笹の微かな香りと餅米の舌触りが、ひどく琴線を揺らす。
故郷の夜空が、無性に懐かしく感じられて。
何故か、涙が零れた。
 
俺の居場所を作ろうと思った。
将来の見えない田舎から出てきたのも、その為だ。
上手くやれば、しくじらなければ、できると思った。
だけど。
 
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
「宗哉……兄さん?」
 
「……ん? なんだい?」
 
いかん。
俺の、悪い癖だ。
ついつい、余計なことを考えすぎてしまう。
 
「あ、いえ。急に黙り込んでしまったので……」
 
「ごめんごめん。ほら、この放課後の職員室に二人きりっていうシチュエーションについてね、熟慮を重ねていたところだから」
 
「そ、宗哉兄さん!」
 
「ほら、ドラマとかでよくあるだろ? 君さえよければ、禁断のリンゴを一緒に……」
 
「私、宗哉兄さんの笑顔、好きですよ」
 
「……は?」
 
「前はなんだか怖かったですけど、最近の宗哉兄さんの笑顔は素敵です」
 
「…………へぇ……」
 
「いつからってはっきりとは言えないんですけど……前はなんだか、怖かったんです」
 
「この村に宗哉兄さんが戻ってきたばかりの頃、私、一度バス停で会いましたよね?」
 
「さぁ? ……覚えてないけど」
 
嘘だった。
はっきりと覚えてる。
何の目的も持たず、街にもいられなくなって、俺は逃げるようにこの村へ戻ってきた。
その時、最初に会ったのが……君だ。
笑うつもりはなかった。
ただ、身に付いた習性ってのは、すぐには抜けないものだ。
意味もなく、俺は笑みを顔に貼り付けていた。
 
「あのとき、宗哉兄さん……なんだかすごく、辛そうでした」
 
「……どうして?」
 
「私、あんな笑顔、見たことがなかったんです」
 
「まるで、ずっと泣いてたみたいな……すごく哀しい、笑顔でした」
 
「フ……」
 
どうやら、本当に俺の笑顔はくだらない。
数年ぶりに会った女の子を、騙すことすらできないなんて。
 
「だから、私、そのとき……」
 
「………………」
 
だから、君はあのとき、俺を呼び止めて。
とびっきりの笑顔で。
 
「『おかえりなさい』って言ったんです」
 
君にとっては、ただの挨拶のつもりだったのかもしれない。
本当に、何気ない一言。
だけど、俺にとっては、忘れられない言葉になった。
 
「……どうしてだい?」
 
「そんなの、当たり前です」
 
「………………」
 
「だって、辛いときに笑おうとする人を、放ってなんておけませんから」
 
「あぁ……」
 
気付いているかい?
君はその一言で。
あっさりと、俺の境界線を飛び越えてしまったんだよ。
 
それが例え的はずれでも。
何も知らない無邪気な優しさが。
俺には、無性に嬉しかった。
 
俺の馬鹿な弟が、どうして一途にこの子ばかり見つめているのか。
ほんの少しだけ、分かったような気がした。
 
とうの昔にすり切れて失くしてしまった欠片が。
妙に、眩しく感じられてしまった。
 
それはきっと、俺なんかが触れてはいけない輝きだけれど。
もう、取り戻すことのできない輝きだけれど。
 
せめて、もう少しの間、側で見ていたい。
 
「……かわいいって、罪だよね」
 
「は?」
 
「うん。俺が裁判官だったら、無期懲役だから、君」
 
「ひ、ひどい……」
 
「なにが? 教師の胃をきりきり締め上げる方が、よっぽどひどいと思わない?」
 
「そんな……」
 
そう、俺は君の教師。
いつだって、傍観者は傷つかない。
無責任に勝手なことをわめき散らしているだけの存在。
 
いくら注意しても、君は俺のことを『先生』と呼ばない。
その距離感が、愛おしくて、怖い。
その危うい境界線を、俺はこれから先も守り通すだろう。
 
「真面目に考えてばっかりだと、息が詰まるだろう」
 
「だから、試しに一度、簡単に考えてみようか?」
 
「はぁ……簡単に、ですか」
 
「じゃあ、質問。正直に答えるんだよ。……子供の頃、何になりたかった?」
 
「え? …………あ……」
 
俺の言葉に、ぱっと頬を赤らめる。
おいおいおい、どういうことだ!
 
「…………い、言えません……」
 
「……ふーん。ま、いいけど」
 
やっぱり、俺には眩しすぎる。
そして俺が選ぶ選択肢は、いつものやつだ。
 
「す、すみません……」
 
「いいのいいの。詮索なんてしませんよ、大人だから」
 
そんなことしなくても、丸分かりだ。
 
「やっぱり、有罪だね」
 
「そ、そんな……」
 
馬鹿弟でも、阿呆でもいい。いい男なら、このさいどこの誰でもいい。
はやく。
俺の前から、この子を連れ去ってくれ。
でないと。
 
「迷うのは、大切なものがある証拠だよ。まだ時間はたっぷりあるから、よく考えてみるといい」
 
俺は、いつものように笑いかける。
 
「すみません……」
 
俺は、自分の笑顔が大嫌いだ。
いつか、この子を傷つけてしまいそうで。
 
 
END